あかいろ2



 顔を上げると、ページをめくる傍ら、ラタムが菓子をつまんでいるところだった。この男は顔に似あわず甘い物に目がないのである。
 本日のおやつは甘ったるいバターケーキ。さっき女官さんが持ってきた時には思わず顔が引きつった。よくもまあ、あんな気持ち悪い物食べられるよなあ。
「ねえ、ラタム」
 声を掛ける。
「ラタムはさ、どう思う? ルディカとこの……〈穴〉の関係って」
 言ってから、そろそろと視線をも向けた。ラタムは思案するように中空に目をやっていたが、あたしの視線に気づくと、ふっとそのきっつい眼差しを僅かに和らげた。本を閉じて、あたしの傍までやってくる。
「詳細なデータというのは残念ながらないのだが――ここに大まかなまとめが載っているだろう」
「あ、ほんとだ」
 示されたページを慌ててメモする。ちゃんと読め、とため息を吐かれた。むっ。
 禿げるんだぞ。そんなため息ばっかり、いつか禿げるに違いない。あたしが禿げさせてやる。
 スキンヘッドにしちゃったらまだ格好良いからいらっとするけど、でも美形の河童頭はシュールだ。吹き出すのをこらえていると、なにを思ったか頭を撫でられた。ちょっと罪悪感。
 ラタムは髪を掻き上げて、続ける。
「これによれば、元々第一聖女マリエの頃には、〈穴〉が現在の五倍もあったのではないかと考えられる」
「『至高なるルドゥキア、慈悲深きかの御方は、民の嘆きを聞き届けられ、聖なる乙女たるルディカをお遣わしになった』か」
「そういうことだな。それからルディカの訪れとともに減少していき、現在の形――つまり、ルディカ不在時に新たに生まれた〈穴〉を次のルディカが補修するという形になっている」
「でも、ニゲルは駄目だったじゃん。〈穴〉が増えちゃった」
 あたしの言葉に、ラタムはそうだな、と答えた後、ほんの少し視線を巡らす。
「……なんと言われたのだったか。グルデナを人質に取る、か? なるほど、確かにそういう見方もできるだろう。ルディカがいなければ〈穴〉の修復は行えない。ルディカを満足させなければ――。面白い考えではあるな。
 だが、その論であっても、現にルディカがこのグルデナを繕うための装置として働いていることまでは否定できまい。それで仮に失敗――お前の言うニゲルのように――したとしても、それはこちらの問題だと、私は思う。我々は、我々のグルデナの修復を、疑いなく、外的存在に頼っている。かつては努力したのかもしれないが、それでも……お前に対するように」
 あたしはそうかなあ、と不明瞭に返した。
「分かっている。感情は理では計れない。してもらうのが当たり前になったことをしてもらえなかったならば、苛立つ、不安になる。そんなものだ。当時の神殿は大変だったようだぞ。ニゲルの死後、彼女の慈悲によっていくつかの〈穴〉が塞がったなどと戯れ言を流したりな」
 今度は、そうだね、と返す。
 難しい。ラタムの言い方って回りくどい。……でも、これって、あたしに気を遣ってくれてるんだよね。
 エルフのくせに、もう。
 もうちょっと簡潔で単純な言い回し使ってくれればね! 文句はないんだけどね!
「なあんで、〈穴〉なんて空くのかな。こんなもの、最初からなければ良いのに。自然災害にそんなこと言っても仕方ないのかもしれないけどさ」
 あたしはぼやく。
 ――言いながら、微かな違和感を覚える。
 自然災害? 本当にそうなのだろうか。あの不自然な、〈穴〉という景色。不自然、自然。不自然、自然。あ、駄目だ、ゲシュタルトさんが崩壊する。
 でも、そっか。
「――ジギリスは、あれを自然だと思っていないんだ。ルディカのために、ルディカを幸せにしてもらう対価として〈穴〉があると思ってる。え、でもちょっと待って。それって、〈穴〉をわざわざ空けて開く、その上でルディカを呼んでるってこと、になる?」
 だれが?
 そんなの答えは一つしかない。
 彼も言っていたではないか。ルディカは、望まれた物語であると。
「つまり、ルディカを前提として〈穴〉があるということか? どちらが先かという論は、終わりがないようにも思えるが……」
 鶏が先か、卵が先か。
 〈穴〉が先か、ルディカが先か。
「なぜあやつがそう考えるに至ったかは、興味があるな。私は考えつきもしなかった。正しいかどうかはさておき、そういう視点もあるわけか」
「納得は、しない?」
「……奴の論は、そのまま、至高なるルドゥキアへの冒涜だからな。これでも、神官の端くれだ。感情として、認めたくはないという部分がある」
「ああ、そっか」
 神があえて不完全な世界を創造したと、ジギリスが言うのはそういうことだ。
 無宗教の日本人、と言われる。でもあたし達が信仰心を全く持たないかっていうと、それはちょっと違うんじゃないかな。
 確かに信心深いとまでは言えないかもしれない。でも、神様がいるかいないか、幽霊がいるかいないか、あの世があるかないか、どこかのラインで、あたし達は疑いながらも信じている。信じてしまう。
 こんなことをあたしが言うと、弟のヨウなんかは、けって顔をするんだけどね。いないもんはいないんだからって。
 でもそのヨウだって、やっぱりお仏壇には手を合わせるし、お墓参りだって忘れない。例え困ったときだけだとしても、神頼みはやっぱりするでしょうよ。
 何度現実に裏切られても、どこかで神様はあたし達のことを考えてくれていると、そう思っている部分が確かにある。あたし達は信じたいという心を捨てきれない、そういう存在なのだ。あたしは、そう思っている。
「〈穴〉は、どうして、空くんだろう……」
 呟いた疑問は宙に浮く。
 答えなんて見えない。まとまりも実りもない思考は、くしゃりと髪を掴むラタムの動きに気を取られ、すぐに中断させられる。
 緩く無造作に括られているだけのラタムの髪は、午後を過ぎた辺りから少しずつほどけかかってきて、もう筋がいくつも肩に垂れていた。煩そうにしているので、結び直してあげよう、とジェスチャーして、後ろから銀色を梳いてみる。
 さらさらな髪を一心に梳かしていると、彼は含んだように笑った。
「このグルデナの仕組みがどうなっているのであれ、そもそもグルデナ――お前の言語ではセカイだったか?――というのは、本質的に不平等なものだ。しかし、そういうものと諦めたりせずに、不平等を是正せんとするその努力が、尊い」
「ラタムはラタムで言うことがまどろっこしいよね」
「そうか? ならこう言えば通じるか。私はお前に出会えたことは、恩恵だと思っているぞ」
 思わず手が止まった。
「うーわー」
「なんだ、その気の抜けた声は」
「いや、驚いてるんですよ」
 これでもね。組み紐落とすかと思うくらいにはね。
「ラタムにそんなこと言ってもらえるとは思わなかったから。初めて会った時は、なにこの失礼な奴って感じだったのに……」
 ぽろっとこぼすと、ラタムはちょっと笑った後で鼻を鳴らした。いや、取り繕えてないからね。笑ってたからね。
 照れてるのかな、と顔を覗き込もうとすると、手で追い払われた。
 うん、照れている。
 笑いが漏れる。
「ハス、お前そろそろ帰れ。直に日も暮れる」
「うわ、もうそんな時間?」
 窓から覗くと、確かに空は夕焼け色に染まっていた。
「綺麗だね」
 あたしはひっそりと呟く。季節がらなのか、土地柄なのか、毎日、嫌みなくらいの美しい夕日が見えるのだ。
「さっさとしろ」
「はあーい」
 踵を返して、戸口に立っているラタムの元へと向かう。帰りは彼が部屋まで送ってくれるのだ。引きこもりのくせに、あたしを一人で歩かせるよりはましなのだという。どんだけ信用ないんだか。
 なにも話さずに、ただ並んで足だけを運ぶ。だれかと一緒にいる時の沈黙は、時には安らぎとなり得る。
 目を細めて影の落ちる廊下を見た。まったりとした黄色、オレンジ。濃く、重く、まとわりつく。
 夕暮れは嫌いだ。特にこんな、どこを切り取っても絵になるような綺麗な綺麗な夕焼けの日は。……なんでかなあ、黄昏時の幸せな記憶も、たくさんあったはずなのに。
 角を曲がった先、燃えるように煌めく赤にはっとした。
「ハス! 良かった。あ、ラタムさんもこんにちは。もう、行き先は分かってるけどさ、唐突に消えるのやめろよな。ピーチュに怒られたんだぜ、おれ」
「――ナノ」
 少し離れたところで赤毛の彼が手を振っていた。反射的に立ち止まる。ハス? と不安そうな声がまたあたしを呼んだ。
 ごめんなさい。
「あの、えっと……ごめんね! ナノ!」
 うわあああ。しょぼい、あたし、しょぼい! 言わなければいけないと思い続けて、何度も脳内シミュレーションしたにも関わらず、頭が真っ白になっていた。信じらんない、主人を裏切るなんて! この脳味噌! ばか!
「へっ? えっ? ああ、そっか、うん……。こっちこそごめんな!」
 ナノは気の抜けたような顔をして、それからにっこりした。うう、それは嬉しいけど、でもこんなはずじゃなかったのに。もっとね、なんというかね、威厳というかね。こんな恥ずかしいつもりじゃなかったのにいい。
 心境的には頭を抱えて逃走したいレベルのあたし(実際には硬直して一歩も動けない)に、真っ赤な頭をぐしゃぐしゃ掻き回しながらナノが近づいてくる。ですよね、やっぱ恥ずかしいよね。
 と、後ろから早足でやってきた女官さんが彼の肩にぶつかった。
「あ、ごめ――」
 言いかけたナノの目が大きく見開かれる。
「――ハス!」
 ぐいっと腕を引かれた。
 勢いをつけて近づいた身体。抱き込まれるような動きとともに、彼のもう一方の腕が振り上げられる。光を反射して、目を刺した鋭い輝きがあった。スローモーション。赤い色が伝って、あたしに垂れかかる。
 ――赤?
 赤って、なに。
 嗅覚にぶわっと刺激を感じた。一気に鳥肌が立つ。
「ラタムさん、これ!」
 ナノがなにかを放り投げる。青い顔をしたラタムが頷き、床に落ちたそれを即座に拾い上げた。彼がそれを口元に運ぶところまでをぼんやりと追ったところで、あたしの腕がまた強く引かれる。
「こっちだ!」
 刃物を振りかざす手からあたし達は逃れ、走り出した。険しい女の顔が目に焼きついた。背後から、ラタムが吹いているのだろう、甲高い笛の音が空を切り裂いて響きわたる。
 脳裏に赤いテールランプ。
 ぴし、となにかがひび割れるような微かな音が聞こえた気がした。ナノが眉間に深い皺を刻んで、悪態を吐く。
「こっちも駄目だ。どこか――」
 手を引かれて、すぐそこの部屋の中に入る。奥には大きな戸棚があって、ナノはその開き戸を開けた。中には柔らかそうな布が一枚二枚掛かっているだけで、あとはがらんとしている。
「ハス、ちょっとここに隠れてて。大丈夫だから」
「え、あ――待って」
「ごめん、大丈夫だからな。すぐ終わるから」
 背を押され、あたしはそこに押し込まれた。すぐに真っ暗になって、足音が離れていく。
 頬を触る。ぬるつく感触。鼻腔にこびりつくにおい。あたしはこれを知っている。
 どろり、と体内を滑り降りていくものを感じた。ああ、そうだ。生理もまだ終わっていないのだ。リズムが崩れた所為か、いつもより長引いていた。身体がしんどかったのは最初の日くらいで、量も比較的少なめなのだけれど、しつこく続いている。
 口の中が粘つく。視覚が用を成さないはずの闇の中で、けれど鮮やかな色が見えた。
 あたしは内も外も血で汚れている。
 目を閉じた横顔が浮かんだ。流れる赤すら美しい、穏やかな顔。それがみるみるうちに、険しい女の顔になる。
 ひ、と後退った。壁に背が当たって、箱の中全体が振動する。身体が竦む。
 ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
 ごめんなさい。
 ごめんなさいお願い許してお願い。
 おかあさん。
 あたしは蹲る。小さく、小さく、身を縮める。

「――ハス!」
「――ハス、大丈夫か!」
 慌ただしい物音とともに扉が開け放たれた。夕日の朱色に視界が覆い尽くされる。
 混乱と焦燥、悔悟とそれから、深い絶望。
「怪我はない? これ、なんの血?」
「ハス?」
 名前を呼ぶ声は、大好きなはずの声。大好きだって知った声。
「ハス、おい――」
 けれど、あたしは絶叫した。

2012/05/05


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