人がすぐに死ぬなんて思っていない。人間っていうのは案外しぶといし、日常に実は満ち満ちている危険を、気づかず上手に回避して生きていくものだ。 でも、一部、ほんの一部だけ。 周囲から、あるべき場所から、呆気なくいなくなってしまう人達がいる。 ――たったそれだけの話なんだ。 あたしは目を開けた。 見知ってはいるけれど見慣れないはずの天に、一瞬、意識が混乱する。 天幕の掛かったベッド。落ち着いた色彩の中で引き立つ黄色。 ……ああ、そうだ。ここはあたしの部屋だ。 ただし、異世界グルデナ、デイモール王国の、聖女ルディカのための寝室。 視線を巡らせ、記憶を辿る。 ナノによって客室のクローゼットの中に隠された。あたしを連れ出しに来たのは、アサキオとジギリスだった。 おそらくは場は制圧されたのだろう。今あたしがこの自室に運ばれていることからも、危険は去ったと考えて良いはず。 ……あたしの記憶は曖昧だ。 自分が異常なパニックに陥っていたことだけがうっすらと思い出される。でも、そこまででストップが掛かってしまう。 考えたくないのだ。思い出したくない。 でもその一方で、気になる。どう、思われただろう。あたしはなにをどこまで言った? 叫んだ? すぐ近くから、息を呑む音が聞こえた。 「ああ、ルディカ、お目覚めでございますか?」 ほっとしたような声のする方向を見やると、女官さんがベッドサイドに立っていた。 王宮にいる侍女さん、女官さん達は、基本的にあたしと同じくらいの若い子が多い。それはこの職業が嫁入り前の箔づけという意味合いをも持つからで、だからその大半は未婚の女の子が占めることになる。 けれど今ここにいる女官さんは、五十歳くらいに見える。 あ、でもこの人、見たことあるな。確か聖女様のお披露目式典の時だ。他の人とは制服がちょっと違って、忙しそうに色々指図をしていた。偉い人なのかな、と思ったっけ。 なんだか、遠い昔の記憶に感じる。 「あ……あたし……」 出した声は掠れていた。びっくり。慌てて、何度か唾を飲み込む。 「本当に、良かったですわ。安心いたしました」 あたしは辺りを見回した。部屋は薄暗い。どのくらい時間が経ったのだろうか。 「あれ? モモちゃんは――あの、すいません、ピーチュは?」 訪ねると、女官さんは寝室の戸口に視線をやった。ん? 今なんかちょっと、表情が難しくなった? すぐに耳に馴染んだ声が飛び込んできて、あたしの意識はそちらに逸れた。 「ハス様……ああ、本当に……」 「モモちゃん、泣いてるの?」 ほっとしたように可愛い顔を歪める、その目の端には透明な物が光っていた。慌てて目を伏せるピーチュに、ああ申し訳ないな、と思う一方で、あたしはふふっと笑ってしまう。 「……顔色がまだ悪いですね」 にやにやするあたしに、ピーチュが恨めしそうな目を向けたような気がした。あれれ、とその珍しい表情を確認しようとしたのだが、一瞬後には目は伏せられ、そんな色は見えなくなっていた。 お、怒ってるのかなあ。 「ごめんなさい……心配掛けた、よね」 言うと、あ、とピーチュは声を漏らす。 「いいえ、謝る必要などありません。ご無事でなによりです」 「モモちゃん?」 感情を抑えた声がなぜか酷く辛そうに聞こえて、あたしは身体を起こそうとする。しかし。 「いけません! まだ安静にしていて下さい」 そうぴしゃりと言われてしまった。女官さんにも身振りで押しとどめられた。すいません。 女官さんは数歩下がり、代わりにあたしの侍女が、恐る恐る近づいてくる。女官さんはテーブルのところで、小振りの湯呑みのようなものを取り上げた。なにやらつんとするにおいがする。 用意のできた湯呑みもどきを差し出された。お盆から受け取って覗き込む。手が温かくなる。おおう、これ、ひょっとして薬湯ってやつか。 「別にあたし、怪我もなにもしてないんだけど。ちゃんと守ってもらったし」 飲みたくないなーとピーチュに上目遣いをしてみたが、無表情で首を振られた。しぶしぶ鼻をつまむと、また壁際に下がっていた女官さんにおかしそうな顔をされてしまった。ううん、しょうがは好きだけどわさびとか山椒は得意じゃないんだ。 涙目になりながらざらつく液体を流し込む。 「飲み終わりましたね。器を」 「あ、うん――」 湯呑みもどきを受け渡す時、指と指とが触れあった。ほんの一瞬だけ――なのに、身体が反応する。 無意識に身を引いてしまったことに気づいて、あたしは愕然とした。 「ごめ、いや、あのね、違うの、あの、そういうんじゃなくて」 ピーチュは口元に薄く笑みを刷いている。 「……お気になさらず。仕方のないことです、お生命を狙われたのですから」 諭すように、優しく言われた。 違うよ。あなたが悪いんじゃないの。これはあたしの問題で。だから、そんなに悲しそうにしないで。 そう言わなければいけないのに、口が動かない。 「あ、はは、情けないね」 結局言えたのはそれだけだった。ぐあああ。 「気にしないでね? 気にしないで」 「はい」 「本当に、本当にだよ」 「はい、勿論」 湯呑みもどきを片づけて、ピーチュは女官さんを振り返った。女官さんは頷いて、穏やかなトーンで話を始める。あの騒ぎの――あたしの暗殺騒ぎの、アウトライン。部屋の中の空気が途端に冷たく緊張をはらんだ。 女官服を着た女を初めとする襲撃者の面々は、他国に仕える人間達であったらしい。 ルディカは世界を繕う。その一方でまた、繁栄の元であるとも伝えられる。実際に、ルディカが落ちた国は栄え、出ていった国は滅んだ。 そのルディカは、現在デイモールが独占する形となっている。数百年間、延々と。 あわよくば奪え、それができなければ、殺せ。そういう指令が出されていたのだと、中の一人が吐いたという。 「ルディカを物として、道具としてしか見ない。そういう人間は、一定数いるものです」 ピーチュが口を挟んだが。モモちゃん、モモちゃん、声に起伏がないですよ。超淡々ですよ。怖いよ。女官さんも困った顔をしてるじゃないか。 「ってか、それだけ話が進んでるって……あたし、どれくらい寝てたんですか?」 「じきに、夜明けになります」 まじか。そうか。そうだよね。あたしはうっすらと光が差し込む窓を見やった。ピーチュがそろそろ必要なくなってきたランプの明かりを消した。 彼女の目元には疲れが見えた。一晩中、いてくれたのかな。 「モモちゃん」 ごめんなさい、ありがとう、そう言おうとした。もう一度、そう伝えようと口を開いた。 その時、ノックの音がした。 モモちゃんの肩が震える。 「……申し訳ございません、ルディカ」 ふいにピーチュの口調が変わった。 ルディカ? 目を見開くあたしとは目を合わせずに、彼女は告げた。 「わたくし、お暇を頂きたく存じます」 お暇? お暇って、えっと、暇を取るって言い回しは、それは、勘違いしやすいけど、この場合、休みたいってことじゃなくて、そうじゃなく――。 視界の隅で扉が開かれて、背の高い人影が入ってきたけれど、あたしはモモちゃんを凝視していた。 「な、なんで? モモちゃん、辞めちゃうの? あたしのこと、嫌になった?」 とっさに思い出したのは、あの鬼のように険しい表情を浮かべた女の顔。 口に出してしまってから、我に返って後悔した。こんなこと、面と向かって問いかけることではない。あたしのこと嫌い? なんてどこの自意識過剰女だ。やばい。冷や汗出てきた。 あたしの声にピーチュはぱっと顔を上げて、けれど言葉を見失ったかのようにもう一度口を噤んで、俯く。 「……滅相もありません。そのようなことはございませんわ」 「じゃあ、それなら」 言い募るあたしにピーチュは背を向ける。 「――確認は、取れましたでしょうか?」 小首を傾げて、彼女は問うた。まるでおどけるようなその仕草の先には、いつも通り近衛のコートに身を包んだアサキオとジギリスがいる。彼らの表情が酷く固いのを、見る。 なに? 悪寒がした。 奇妙な、別人のような顔をしたアサキオが、一度首を縦に振る。 「ああ。……従って、ピーチュ・エミ、君を――させてもらう」 「ええ、どうぞ?」 なに? どういうこと? きみをこうそくさせてもらう。コウソク。……拘束? 「……どうしたの、皆。なに、どうしたの?」 問いかける。ハス、と痛ましげな声に名前を呼ばれた。 でも、それだけ。あとは、だれもなにも語らない。 ピーチュの華奢な手首に、取り出された細い物が巻きつけられる。ぞっとした。 「ま、待ってよ! どういうこと? やめて!」 「――ルディカに、申し上げます」 平坦な声がした。よく手入れされた金の髪。後頭部で綺麗に結い上げられたお団子。 「モモちゃん……?」 「先程、お聞きになられましたね? あなた様を浚おうなどと、あまつさえお命を奪おうなどと、そのような馬鹿げた計略が練られたのだと。ですが、他国の人間が、そう易々とこの王宮に入れるはずはございません。協力者が、いるのです」 なにが、言いたいの? あたしは固まってしまって、彼女の言葉を止めることができなかった。 「……かの不届き者らを手引きいたしましたのは、わたくしの伯母一家にございます」 「え……?」 呆然とした。言われたことの意味が分からなかった。 頭が上手く回らない。 ……どういうこと? 「モモちゃん、ピーチュ? ねえ、あれ? なに?」 出した声は自分でも分かるほどみっともなく震えていた。 明けきらない青い空から来る光は、なにかを照らし出すほどの強さを持たない。ぼんやりとした薄暗がりに、全ての色が沈んでいる。明るい色を好むはずの彼女のドレスが、灰の色であることに、今になってようやく気づく。 「……早くわたくしを連れていって下さい」 分からない。なにが起こっているのか分からない。 「モモ、ちゃん?」 ――あれ? 悪い夢は、終わったんじゃなかったっけ? 「早く参りましょう、早くして下さい」 「あ、ああ――」 急かす声に、再び扉が開けられた。一歩、踏み出して、ピーチュは部屋の外に出てしまう。 混乱の中、反射的にあたしはそれを追いかけようとした。そんなあたしを、近づいてきたジギリスが押さえる。 「やめて、やだ、嫌だ……!」 「駄目だよ、ハス」 「だって、なにこれ、なにこれ。やだ、待ってよ」 彼女はあくまで振り返らない。 「うわ、ちょっと――」 死にもの狂いで暴れると少しだけ拘束が緩んだ。あたしはその隙間から身を乗り出す。 けれど、すぐさま背後の手が伸びて、あたしを捕まえ引き戻す。 非情な扉が――閉まる。 あたしは口を動かす。動かすだけ。はくはくと、声は出ず、息だけが漏れていく。 分からない。 分からないけど。でも、でも。 なにか言わなきゃいけないのに。言うべきことがあるはずなのに、言葉が出てこない。もどかしい。 かつかつと遠ざかる足音が聞こえる。まだ、まだ、間にあうのに。 「君は寝てるんだよ。まだ身体、良くないんだろう」 「だってピーチュが」 「寝るんだ」 ずるずると身体が引きずられるのに、抵抗する。 さっきから酷く目眩がしていた。次いで、それが強烈な眠気であると気づく。さっきの薬に、なにか入っていたんだろうか。 ああ、気配が遠ざかる。 二つ、三つと扉が閉まる音が微かに聞こえて、あたしは脱力した。 ジギリスの指示を受けて、壁際で居心地悪そうにしていた女官さんが別の部屋に消える。なにかを取りに行ったのか。 あたしはその場にうずくまる。 「頭痛い。なんで? なんでだよ。モモちゃんがなんかしたの? モモちゃんは、だって、ピーチュは。そうだ、伯母さん、伯母さんがやったんだって、そう言ってたじゃん」 「ルディカを傷つけんとするは重罪」 歌うような声に怯える。 「調べていたよね、知ってるだろう? 第六聖女グズマの時代、彼女の暗殺を目論んだ娘の末路がどうなったか。その家ごと、取り潰しだよ。ルディカを傷つけるのは、ましてや拭そうとするのは、それほどの重い罪なんだ」 そう、確かに、知っている。本にはそう書いてあった。手引きしたターレン家は本流が潰されて、ベルの婚約者だった少女の家は――。 肩に置かれた手を力任せに振り払う。ぱしんと乾いた音が鳴った。腹立たしくて、情けなくて、堪らない。 分からない。分からない。 「意味分かんない」 頭がくらくらする。ベッドに戻ろうと一歩踏み出したところで足がふらついて、背後から抱き止められてしまう。 「やめて。あんたなんかに触られたくない」 「これは、嫌われたものだね」 ジギリスの声はすぐ耳元で聞こえた。ぞくっと背筋が震え、それによって更に攻撃的な気分が強まる。 「離してよ。別に気遣ったりしてくれなくても良いよ。無理しなくて良い。あたしのこと嫌いでしょ? あんたなんか、本当は、あたしが死ねば良かったと思ってるんじゃないの? そうすればこんな、愛すべき聖女様なんていうばかげた茶番劇からは解放されるもんね。でも残念だったね、あたしは全くの無傷だよ」 ぺらぺらと口が勝手に動くかのようだった。 「……酷いな。酷いことを言う。そんなことを言われたら、期待に応えなきゃいけないじゃないか」 強い力が掛かって、あたしはベッドに倒れ込む。男の身体が上にのしかかり、手首が拘束される。 「ねえ、簡単なんだよ、君を傷つけることなんて。ほら、震えてるじゃないか」 蜜色の暗い瞳が覗き込んでくる。それは、酷く幻想的な光景だった。ひんやりとした体温を感じる。 恐ろしかった。怖かった。こんなにも差がある。一般人と兵士、男と女。こんなにも、勝負は絶望的だ。 けれど、だからといって、退くか? ……いいや、答えは否だ。勝つも負けるも関係ない。この男にこの上一度でも弱みを見せてはいけない。 あたしはただ、退くわけにはいけないのだ。 「なにをしても無駄だよ。あたしは死なない。生きて、生きて、しがみついて、絶対に家に帰るんだ」 あたしは荒い息を吐き、金の双眸を睨みつける。すると、見上げる先、瞳は逡巡するように揺れた。そうして彼は別のことを言う。 「……少し、身体が熱いね。声もまだ少し掠れてる。熱があるんじゃない」 さらりと前髪が梳かれ、その大きな手があたしの額を、目を、覆った。 言われてみると確かに、ほんの少し熱っぽいかもしれなかった。あたしとは対照的に、冷えた指先に熱が奪われるのを感じる。 急速に眠気がぶり返す。 「本当に、君ってさあ――。ねえ、ハス。君の過去には、なにがあったの?」 声が聞こえた。顔が見えない所為なのかな、それがなぜだか、途方に暮れたように聞こえた。 あたしの過去。 たいせつな、たいせつな、つみぶかい。 でも、あたしは首を振る。 「……今はそんなことどうだって良いじゃん。今気にすることじゃない。気にするべきなのはモモちゃんだよ。モモちゃんを戻して。あたしのところに返してよ」 目尻に膨れ上がった熱っぽい水が、仰向けになっているあたしの耳元まで流れ落ちる。一粒だけ。 嫌なの。もうだれかがいなくなっちゃうのは嫌なの。 ため息が聞こえた。もう一度髪を梳いて手が離れ、身体を戒めていた鬱陶しい重さも消失する。 「では、お姫様、ちゃんとお休みなさい」 柔らかな綿の中に身体が重く沈む。気を張った反動か、どっと疲労が襲ってくる。あたしの瞼はもう開いてはくれない。 「……ああ、救い難いね」 なにが。そう思考で噛みついたのを最後に、あたしの意識は途切れた。
2014/03/06